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  2022年10月:金沢
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長町武家屋敷跡21世紀美術館石浦神社・兼六園金沢城魚半

【10月21日(金)晴】金沢城

兼六園桂坂口から金沢城へ。
金沢城は1580(天正8)年に佐久間盛政(1554 - 1583)が築城したとされている。
江戸時代には加賀藩主前田氏の居城だった城。城址は国の史跡に指定されている。

兼六園桂坂口からの金沢城。

兼六園桂坂口を出て、目の前の石川門から入る。
石川門は金沢城の搦手(裏門)で一の門(高麗門)、二の門(櫓門)、続櫓と二層二階建ての石川櫓で構成された枡形門。

石川門と石川櫓。

一の門を潜って枡形内へ。右が一の門、左が二の門。

二の門正面。

石川門二の門を潜ると三の丸広場が広がり、右手に河北門(二の門)が見える。

左奥が三の丸広場、右手が河北門(二の門)。

河北門は、金沢城の大手門から入り河北坂を上がったところに位置する三の丸正面にあたり、金沢城の実質的な正門になる。石川門(重要文化財)、橋爪門と共に金沢城三御門と呼ばれている。

河北門(二の門)の城内側。

河北門の枡形内側(右は一の門)。

河北門(二の門)の上から新丸広場を望む。

三の丸広場の奥に最も格式の高い二の丸の正門、橋爪門がある。
高麗門形式の一の門、石垣と二重堀で囲まれた枡形、櫓門の二の門からなっている。二の門内部には番所が置かれていた。枡形は城内で最大の規模。

橋爪門続櫓は橋爪一の門を見下ろす位置にあり、 三の丸広場から橋爪橋を渡って二ノ丸へ向かう人々を監視するための重要な櫓で橋爪櫓とも呼ばれていた。20年前の金沢城は未だ一部しか公開されていなかった。

橋爪橋と橋爪門(一の門)。中央の櫓は橋爪門続櫓。

橋爪橋左に伸びる濠と城壁。

橋爪門枡形内(右が一の門、左が二の門)。

鶴丸広場と本丸園地の間に本丸を守るための戌亥(いぬい)櫓石垣があるが、石垣の中程に不自然な木立が見える。

戌亥櫓石垣と木立。

木立の裏側に煉瓦造りのトンネルがある。この木立、トンネルを隠すための木立としか思えない。説明版には『明治から昭和にかけて、金沢城は旧陸軍の所管となり、軍用施設が設けられた。このトンネルは旧陸軍によって弾薬庫が建設された明治から大正期に作られたものとされている』とあった。

煉瓦造りのトンネル。

戌亥櫓石垣の先が三十間長屋。石川門と同様重要文化財に指定されている。もともとは干飯(ほしいい)が貯えられていたそうだ。後に鉄砲蔵と呼ばれ武器庫としても利用されたようだ。

三十間長屋。

三十間長屋の前に木々に覆われた石垣がある。本丸の正門、鉄門(くろがねもん)だ。1600(慶長)年前後の創建時には鉄板を貼った扉が取り付けられていたことから、この名がついたという。

鉄門の石垣。

鉄門の奥は鬱蒼とした森の本丸園地(本丸の森)で、嘗て本丸が置かれていたところ。ここに築かれていた天守閣は1602(慶長7)年10月晦日の夜、落雷によって炎上、火薬庫にまで引火して本丸にあった建物は殆ど焼失してしまった。

本丸園地。

本丸園地を抜けると見晴らしの良い辰巳櫓跡に出る。

辰巳櫓跡。

辰巳櫓跡の先端に出ると眼下にお堀通り(百間堀跡)や兼六園の森、21世紀美術館を一望できる。

辰巳櫓跡から。左に斜めに走る道路がお堀通り。

本丸園地を鶴の丸に向けて抜けると戌亥櫓石垣の東端の前に出る。
今は二列に分かれているが、江戸初中期には繋がっていたと推測されている。当時は、この切り離された部分上部に本丸裏門が設置されていたらしい。

戌亥櫓石垣の東端。

戌亥櫓石垣の東端の前を降りてゆくと鶴丸倉庫の前に出る。
幕末の1848(嘉永元)年に竣工した武具土蔵で、石川門、三十間長屋と同様、重要文化財に指定されている。明治以降は陸軍によって被服庫として使われていた。城郭内に残っている土蔵としては国内最大級の遺構。

鶴丸倉庫。

鶴丸倉庫から鶴の丸休憩館の前まで降りてゆくと丑寅櫓が載っていた東ノ丸北面石垣の下に出る。この石垣は最も古い技法によるもので金沢城の初期の姿を伝えている。自然石や荒割りしただけの石を緩い勾配で積み上げている。
丑寅櫓は1759(宝暦9)年の大火で焼失してしまった。

東ノ丸北面石垣。

金沢城見学の出発点になった石川門の前に戻る。
石川門前から三の丸広場の先に見える五十間長屋。右端が菱櫓、左端が橋爪門続櫓。

十間長屋。

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