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  2018年4月:成都
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【4月28日(土)晴】武侯祠博物館(2)

二問」から参道を真っすぐにを進むと「業紹高光」の扁額か掛かる漢昭烈廟の前に出る。ここが昭烈帝と謚(おくりな)された劉備の廟。

「業紹高光」の扁額か掛かる漢昭烈廟。

扁額の「業紹高光」は(劉備が)高祖(漢を開いた劉邦)や光武帝(後漢の初代皇帝である劉秀)の業を引き継いだ(紹)ことを表している。扁額の書は清の同治年間(1862 -- 1874)に成都将軍で四川の都督を務めた完顔崇石の手による。

完顔崇石の手になる「業紹高光」の扁額。

漢昭烈廟の中央に祀られている劉備像は金色の衣装をまといユッタリ構えている。以下は像の説明版より。

◆劉備(161 -- 223)
字は玄徳。涿郡(河北省涿県)の人。漢末に決起して天下を争い221年に成都で帝位につく。呉との争いに敗れた後白帝城(重慶奉節)で病死する。謚は昭烈皇帝。この像は清の康煕11(1672)年に建てられた。

劉備。

漢昭烈廟には劉備とともに劉諶(りゅうしん)も祀られている。

◆劉諶(?-- 263)
劉備の孫。北地王に封ぜられる。魏軍が成都を攻略した時に、王であった劉禅(劉備の子)は投降を主張するも、劉禅の子・劉諶は城に残って魏軍と戦い、自刎して蜀に殉じた。この像は清の乾隆53(1788)年に建てられた。

劉諶。

孫の劉諶は劉備と共に漢昭烈廟に祀られているのに、子の劉禅は漢昭烈廟に祀られていない。これは歴史の評価の現われか。

漢昭烈廟の奥が武候祠。
武侯祠は諸葛亮とその一族を祀っている。武侯祠の「武候」は諸葛亮の諡(おくりな)。

門に掲げられた扁額の「武侯祠」は郭沫若の書。

この門の奥の「名垂宇宙」の扁額を掲げた建物に諸葛亮が祀られている。
「名垂宇宙」は杜甫が唐代(766年)に詠んだ七言絶句「詠懐其五」から引用した句で、「その高名は宇宙に響き渡っている」という意味。その書は清の康煕帝の子・愛新覚羅允礼にる。

「名垂宇宙」の扁額を掲げた武侯祠。

武侯祠の正面、大きなガラス格子で仕切られた「静遠堂」の中から諸葛亮がこちらを見ている。
「静遠」というのは諸葛亮が言った「寧静致遠、淡泊明志」から来ており「心が落ち着かないと遠大な志も実現しない」という意味。

「静遠堂」の諸葛亮。

◆諸葛亮(161 -- 234)
字は孔明。琅琊陽都(山東省沂南)の人。劉備より三顧の礼を受けて使えたことは有名。呉と同盟を結び曹軍を迎え撃ち、国を治めて民の生活を安定させ、南西北伐した賢相。234年、魏と戦った時に前線で病死し、陜西勉県定軍山に埋葬される。謚は忠武侯。この像は清の康煕11(1672)年に建てられた。

諸葛亮。

諸葛亮の右側にその息子の諸葛瞻が祀られている。

◆諸葛瞻(227 -- 263)
字は思遠。諸葛亮の息子。幼少から書画が巧みであった。行都護、衛将軍に就く。263年に魏将の鄧艾が蜀漢を攻撃に軍を率いて防戦に当たるも、この戦いで戦死する。この像は清の康煕11(1672)年に建てれた。

諸葛瞻。

そして諸葛亮の左手に祀られているのが諸葛尚。

◆諸葛尚(?-- 263)
諸葛瞻の子、諸葛亮の孫。父の諸葛瞻が鄧艾が率いる魏軍と戦った時に共に戦い戦死する。戦いに斃れたときは二十歳未満だったとされている。

諸葛尚。

さらに武候祠の奥に三義廟がある。
ここには楼桑村の桃園で義兄弟を誓った劉備と関羽、張飛の三人が祀られている。

「三義廟」の扁額を掲げる門。

門の奥が「義重桃園」と扁額を掲げた三義廟。「義重桃園」は桃園の誓いで生まれた義は重い、ということを示している。

三義廟。

三義廟に入ると正面に大きな「神聖同臻」の額と、その下に祀られている劉備像。
「神聖同臻」の意は「達して神聖と同じ」か劉備の人となりを表している。

「神聖同臻」。

◆劉備(161 -- 223)
中国古代の皇帝の中で「仁恵愛民」の皇帝として称えられている。「三国演技」に描かれた劉・関・張の三人にる結義は共に憂患と艱難の魏の兄弟となった。

劉備。

◆関羽(?-- 219)
一騎打ちでは敵なしの武将で、当時、彼の威名は広く知られていた。「五関突破斬六将」と言われる辛苦の末に劉備の元に戻った話は有名。古代「忠義」の典型人。巷では「武聖人」あるいは「武財神」と呼ばれ崇められていた。

劉備像の右側に並ぶ関羽像。

◆張飛(?-- 221)
戦場では常に勇猛・豪胆で知られ、その誠は金石を貫くほどだった。曹軍との戦いでは長坂橋に一人立ち、追撃してきた曹軍を大喝して退けたことは有名。後に「猛将」と言えば彼のことを指した。

劉備像の左側に並ぶ張飛像。

三義廟から恵陵の南側に戻り三国陳列室の裏手にある堀の前に出る。

「漢宮残柱」の碑(左下)と三本の石柱の遺構。

堀を挟んだ真向かいに黒い照壁が建っている。

黒い照壁。

照壁の裏に回ると劉備の陵墓「恵陵」への正面の門が隠れている。この小振りな門には「漢昭烈廟」ならぬ「漢照烈陵」の扁額か掛かっている。

「漢昭烈陵」の扁額がかかる門。

門を潜ると両側に麒麟と馬の像が並ぶ、これも小ぢんまりとした参道に続く。

小ぢんまりとした参道。

「千秋凛然」の扁額が掛かる門を潜る。
扁額の意味 は「千年経っても畏敬の念を起こさせる」かな。

「千秋凛然」の扁額が掛かる門。

扁額の下を潜ると直ぐに灰白色の石積みでできた門があった。門の中央に「漢昭烈皇之?」の碑が嵌め込まれている。 最後の一文字は削られたようだ。

「漢昭烈皇之?」の碑。

石積みの門を潜る。門を潜るとすぐ目の前に石垣の上とコンモリ盛られた劉備の陵「恵陵」がある。

こんもり土盛りの劉備の陵。

門の内側、丁度「漢昭烈皇之?」の真裏の辺りに「漢昭烈之陵」と刻まれた碑が、石垣の前には鼎が置かれている。

石積みの門(左側)を潜る。右に鼎と石垣が見える。

「漢昭烈皇之?」の真裏に「漢昭烈之陵」とあった。

円形の恵陵を一周。
今度は恵陵の外周を囲むベンガラ色の回廊のような壁と竹林に挟まれた「红墙夹道(紅壁挟道)」を往く。

红墙夹道と竹林。

「红墙夹道」を「中有漢家雲」と書かれた円形の門を出て、直ぐ並びにある「聴鸐苑」とも読める同じような門に入る。

「中有漢家雲」の門と同じような「聴鸐苑」の門。

「聴鸐苑」の門の中は盆栽園になっている。

日本の盆栽とは趣が違う盆栽が並んでいる。

盆栽園の奥まで行くと小さな出入り口があり、恵陵前の門(扁額「千秋凛然」の門)の横に出る。

「千秋凛然」の門の横に出る小さな門。

ベンガラ塀の屋根瓦。

恵陵と武将廊との間ににある 香叶軒に続く回廊が面白い。

香叶軒に続く回廊。

軽量の北側にある孔明苑の門が閉まっていて、内部を見学することはできなかった。

閉まっていて中に入れなかった孔明苑。

孔明苑の更に北隣には「桃園」と刻んだ石碑が建っているが、もちろんここは劉備、関羽、張飛が義兄弟を誓った桃園ではない。

桃園の石碑(写真の二人は知らない人)。

石碑の横にはズシリと良寛のある石像が三体並んでいる。 もちろん劉備、関羽、張飛の三人だ。

左から張飛、劉備、関羽。

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