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  2012年6月:園部・宍人
6月23日6月24日地図
園部城址摩気神社太郎兵衛の墓宍人城址・八幡宮九品寺

【6月23日(土)】摩気神社

園部城址から西南西の方角に直線で4キロメートルほどの園部町竹井、胎金寺山の北麓にあるのが摩気神社。

石造明神鳥居。

鳥居に掛かっている珍しい形をした額に『式内 摩気神社 正四位小出英尚書』とあるが、小出英尚は園部藩主ゆかりの人だろう。

左下に『正四位小出英尚書』と読める。

小出英尚を調べたらこんな記述が見つかった(Wikipediaより抜粋)。

小出英尚(こいでふさなお)
嘉永2年9月3日(1849年10月18日)― 明治38年(1905年9月27日)。
丹波園部藩の第十代(最後)の藩主。吉親系小出家十代。官位は従五位下、伊勢守。
幕末の動乱期では早くから朝廷に味方して京都の警備などを勤めた。大政奉還後は完全に新政府側に与し、西園寺公望が指揮する山陰道鎮撫軍に従った。
明治2年(1869年)6月、版籍奉還により藩知事となる。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により免官となる。

鳥居の手前にいつ頃のものなのか定かではないが『延喜式内摩気大社』と彫り込んだ石碑が建っている。

鳥居手前右手に立つ石碑。

鳥居をくぐって進むと神門があり、その手前には未だ新しい神社の縁起が建っている。

摩 気 神 社
 摩気神社は「延喜式」神名帳にその名が見え、船井郡の明神大社と記されている。摩気郷十一ヵ村の総社とされ、本殿は、北を向いて建てられている。永歴三年(1079)白河天皇が当社に行幸された折、社殿一円修造の上、「船井第一摩気大社」の勅願を賜ったと伝えられる。江戸時代には園部藩主小出氏の累代の祈願所となった。宝暦十一年(1761)に火災に遭ったが、その六年後には、藩主小出英持によって本殿・摂社殿が再建された。
 当神社の主な例祭は、六月に行われる「お田植祭り」や十月中旬に行われる「神幸祭」などがある。以下略。

この縁起には創建がいつだったのか説明がない。Wikipediaは『創祀の年代等は不明であるが、『新抄格勅符抄』所収の大同元年(806年)の牒に神護景雲4年(770年)に神封一戸が充てられたことが見えるので、それ以前にさかのぼることは確実とされる。』と記している。

縁起の説明によれば神門の屋根は嘗ては茅葺きであったらしい。門の左右に金剛力士(阿吽)像を安置していた形跡がある。神社の門に金剛力士像はないと思うのだが。

神門(三間一戸八脚門 入母屋造り 銅板葺)

門の扁額は風雨で大分墨色が薄れている。何と書かれているのだろう、達筆すぎて読めない。左の方に『明治』と読めるからさほど古いものでは無さそうだ。

墨色が薄れてきた神門の扁額。

神門をくぐる。
拝殿とその奧に見える本殿は白木に総茅葺き屋根だ。茅葺き屋根の神社を訪れるのは初めてではないだろうか。瀋陽の清昭稜の方城は乾いた静謐感に溢れていたが、こちらの境内はしっとりした静謐な空気が流れていた。

拝殿と背後に見える本殿。

中央の本殿と左右の摂社の屋根は二重になっているようだ。境内に掲げられた縁起は、

本殿 一間社流れ造り、こけら葺き
東摂社 桁行二間、梁行一間、一重、切り妻造り、こけら葺き
西摂社 桁行三間、梁行一間、一重、切り妻造り、こけら葺き
附 覆屋、三棟

と説明している。近づいてよく見ると茅葺き屋根を支える柱が本殿と摂社の外側に並んでいるのが分かる。茅葺き屋根の下を覗くと本来のこけら葺きの屋根が見えた。

中央の本殿と左右の摂社。

本殿の祭神は水や食物を司る神であるといわれる大御饌津彦命(おおみけつひこのみこと)。
神社名の「摩気(まけ)」は「御食(みけ)」から来たと考えられ、例祭の「お田植祭り」や「神幸祭」に執り行われる「お千度」などから祭神は農事に深く関わる神であると考えられている(参考Wikipedia)。

東摂社には船阪と大西の三つの八幡宮(船阪八幡宮、大坪八幡宮、西山八幡宮)、仁江蛭子神社、口八田の葛城神社の六祭神が、西摂社には黒田の熊野神社、横田の若宮神社と三輪神社、大村の加茂神社、宍人菅原神社、半田大森神社、他の八祭神が祀られている(参考Wikipedia)。

正面の拝殿とその背後の本殿。

園部城址摩気神社太郎兵衛の墓宍人城址・八幡宮九品寺

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