ホーム2006年黒川晃彦展新年会津軽三味線21世紀の森と広場北京(4月)
始動広島NPO法人関宿滑空場学生航空連盟(SAF)Ka8Bのレストアバンコク北京(10月)

  2006年6月:広島
6月14日6月15日地図

【6月15日(木)】広島平和記念資料館

広島からタクシーでと簡単に考えていたS社 (S精機とは別会社) は東広島市になることが分かり山陽本線で西条駅に向かう。
幸い約束の10時に間に合い午前中一杯先方が投げてくる質問に答える。

広島駅に戻り、昨夜の初体験で気に入った広島風お好み焼きで昼食を済ませて、駅前から路面電車で平和記念公園見学に出かける。

ムカデを連想させる下の路面車輌は昨夜広島駅前で撮影したもの。

昨夜撮影した広島電鉄の路面電車。

車内は明るく長い廊下のようで輸送力もありそうだ。
違法駐車の取締を強化したのだから都心部もこんな車輌で路面電車を復活させてはどうだろう。

運賃は定額の150円。

いくつになっても乗り物の窓から外を眺めるのは心弾む。

すれ違う車輌も後ろから来る車輌も一輛仕立ての普通の車輌。

路面電車を「原爆ドーム前」で降りる。
すぐ目の前に、今まで幾度となく新聞や雑誌・TVの報道で目にしてきた原爆ドームが、緑が濃くなってきた公園の木立の中に建っていた。

原爆ドームは1915(大正4)年にチェコ出身の建築学者ヤン・レツルによる設計で建設された広島県産業奨励館が被爆したもの。
原爆の投下で建物は一瞬に大破し、中にいた人は全員が死亡したと伝えられている。爆風が真上からだったため壁の一部が倒壊を免れドームの鉄枠とともに象徴的な姿を残している。

英語のガイドが付いていたので外国からの学生達だろう。

ドームを回り込み元安川沿いに進み元安橋を渡る。

原爆ドームの前を流れる川は元安川。

「原爆の子の像」は団体で小学生のグループや団体旅行者に囲まれていた。
この像は2歳で被爆し12歳で白血病で亡くなった佐々木禎子さんがきっかけで作られた慰霊碑だという。

原爆の子の像。

「平和の灯」の向こうに「広島平和記念資料館」が見える。どちらも丹下健三の作。

「平和の灯」と「平和の池」。

「原爆死没者慰霊碑」の正面に立つと埴輪の形をした屋根を通して原爆ドームが見える。

「原爆死没者慰霊碑」。

平和公園の一番奥に東西に分かれて建つ「広島平和記念資料館」に入った。

東館の一階には被爆直後と被爆前の市内中島地区のパノラマが並べて展示されていた。
本川が元安川と分岐する地点に架かるT字形の相生橋が原爆投下の目標になったと説明パネルにある。

T字形の相生橋の右下に白丸で囲った所が広島県産業奨励館。

広島県産業奨励館が何処か分るだろうか?

被爆直後の市内の様子を記録した当時の写真が大きなパノラマ写真で壁一面に貼られていた。

上は原爆ドーム周辺を複写してきたもの。下は被爆者の様子を撮影したもの。

被災の様子を再現したジオラマは、これが人形だと分かっていても痛ましくて自分の肌もヒリヒリしてくる。

見るのも辛い被爆の様子を再現したジオラマ。

「広島平和記念資料館」に展示されている広島に投下された「リトルボーイ」と呼ばれた原子爆弾の模型。
長さ3m、重さ4トン、爆心地の上空600mで爆発し、1945年12月までに140,000人が命を落としたと記録されている。

原子爆弾のレプリカ。

赤いボールは爆心地上空600メートルで爆発後1秒経った原爆の様子。

息が詰まるような展示品の列だったが展示見学を終えて、東館の窓から見える平和記念公園の様子に何故かホッとさせられた。

東館の窓から見えた広島平和記念公園。

「広島平和記念資料館」には沢山の小学生がノートを片手に見学に来ていた。
中には「怖いからこれ以上先に進みたくない」とべそをかいている女の子もいた。
外国人の見学者も数多く、皆熱心に展示品の説明を読んだり展示品にカメラを向けたりしていた。


6月14日6月15日地図
ホーム2006年黒川晃彦展新年会津軽三味線21世紀の森と広場北京(4月)
始動広島NPO法人関宿滑空場学生航空連盟(SAF)Ka8Bのレストアバンコク北京(10月)