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  2010年11月:松虫寺
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【松虫姫伝説】

  • 「房総の不思議な話、珍しい話」大衆文学研究会千葉支部編、崙書房 1983(昭和58)年刊に収録されている八巻実:著『松虫寺に残る皇女松虫の療養物語』を参考にしています(カットは別)。
今から1300年ほど前の奈良時代、東大寺を建立した聖武天皇の第三皇女に松虫姫(不破内親王)という美しい姫君がいました。

年頃になって重い難病[1]にかかり、姫はもとより父帝や母の后の嘆きはひとかたではなく、あらゆる治療の手を尽くしましたが、病は重くなるばかりでした。
ところがある夜、坂東の下総に効験あらたかな薬師如来があるという夢[2]のお告げがあり、天皇は藁にもすがる思いで松虫姫を下総に下向させました。

板東は聞くもおそろしい化外(けがい)[3]の地であったので心ぼそいことかぎりなく、従者は一人逃げ二人去りして、下総の国府に着いたときには、杉自という乳母と数人の従者だけになっていました。
ともあれ、一行は国府をあとに疲れた足を引きずるようにして、印旛沼のほとりの萩原郷にたどり着きました。

すでに陽は西に傾き、訪ねる薬師堂は満々と水をたたえた湖沼を見下ろす丘の上にありました[4]
都を遠く離れて、見知らぬ板東の、人家もまばらな貧しい村里にたたずむ心ぼそさはたとえようもなく、人々はただ呆然と立ち尽くすばかりでしたが、今の松虫姫にとっては、この薬師仏にすがりつくほかに生きる望みもありませんでした。
必死に祈ることだけが、ただひとつの生きる証しなのでした。

姫は心をとりなおして、薬師堂のかたわらに草庵を結びました。
その草庵で雨の日も風の日も、粉雪が舞い乱れて寒風吹きすさぶ冬の日も、朝夕一心に祈り続けました。
乳母や従者たちも、思い思いに近くに小屋をかけて、姫と行を共にしながら、都で習い覚えた機織りや裁縫、養蚕などを村人に伝え、生活の糧としながらかしづいていました。

数年の歳月はまたたくまに流れ、姫の一念は御仏に通じて、さすがの難病もあとかたもなく全快しました。
姫はもとより従者たちの喜びは一方でなく、また都の技術を教わった里の女房や娘たちも、今はすっかり松虫姫を慕って共に喜んで、病気全快の報せはただちに都へ届けられました。

都からはさっそく迎えの人々が差し向けられましたが、松虫姫は、見知らぬ下総の地で途方にくれる自分達を親切にいたわってくれた淳朴な村人たちに報いるため、乳母の杉自をこの地に残し、都の技術を広めよと命じて、名残を惜しむ村人たちに見送られて都へ帰って行きました。

このとき、都から姫を乗せてきた牛は年老いて乗用にたえられなくなっていましたので、乳母と共に残して行くことにしましたが、これを悲しんだ老牛は自ら近くの池に身を投じて果てたといいます。
村人はその牛の心根を哀れみ、今も「牛むぐりの池」と呼んで語り伝えています。

松虫姫から詳しいようすを聞いた聖武天皇は、効験あらたかな尊い薬師佛を野末の街道にさらしておくのは畏れ多いとして、僧行基に命じ、七仏薬師群像を刻して献じ、一寺を建立して松虫寺と名付けました。

その後、松虫姫は異母兄塩焼王の妃となりましたが、皇位継承にからむ藤原一族の政争にまきこまれ、二度にわたる流刑の悲運に見舞われながら、数奇な生涯を終えました。
遺骨は遺言によって松虫寺に分骨され、村人は境内に墳(つか)を建てて丁重に葬り、松虫姫御廟と呼んで現在に伝えています。

本堂の裏手に、石の柵に囲まれた一角がその墳(つか)で、一本の老樹が亭々とそびえるその根方に、表面の文字も崩れた一基の石碑が枯葉に埋もれて立っていますが、裏側に、宝亀二年二月十二日(771年)と刻まれており、松虫姫の伝説が現実に歴史の重みを加えて身を引き締めます。

周囲に積もる枯葉をかきのけて見ると、十円玉や五円玉が散乱して、今も変わらない村人の素朴な信仰が偲ばれて趣を添えます。

また境内には松虫姫が都に帰るとき、銀杏の枝の杖を立てていきましたが、やがて芽を吹き成長して今に残るという老樹があり、わずかな葉をつけて千二百年を越える風雪を偲ばせています。

松虫姫の御廟を守ってこの地に没した杉自の塚は、寺の山門から二百メートルほど離れた東方の三つ辻にあります。
青面金剛を刻んだ数十基の庚申塔に囲まれて、残っているのです。

── 注 ──
1. 癩病(ハンセン病)だったと言われている。
2. 原文には誰が見た夢か明記されていない。松虫姫が見た夢とする記述もある。
3. 国家の統治の及ばない地方。
4. 萩原にまつわる伝承として次のような話が残っている。
【土浮きの渡し*
松虫姫一行が萩原の薬師に詣でるため、奈良の都から、ここ印旛沼の岸までたどりついたところ、風が強くて舟を出すことができない。
そこで、ともに下向してきた僧の行基が、一心こめて弁財天(水の神さまでもある)に祈ったところ風が治まり、沼底の土が浮き上がって水上に一条の道ができた。
一行は無事この道を渡って萩原に渡ることができた。以来この地を土浮き(つちうき)と呼ぶようになった。土浮きは現在の佐倉市の草笛の丘がある集落のこと。土地の人は土浮きを「ツッチッキ**」と発音する。

* 土浮の渡しは1960(昭和35)年頃まで存在した渡しで、対岸の名をとって瀬戸の渡しとも言われていた。
** このサイトの管理人の母親の実家が草笛の丘に隣接した地にあり、叔父や叔母達が「チヂィキ」と呼んでいたような気がする。

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